屋上緑化の対象
アメリカ的発想をもっともよく象徴するのが、T型フォードに代表される自動車の存在だった自動車は自由と個人の尊重をスローガンに掲げるアメリカにぴったりの道具であり、愛玩物だった。
一九二九年のアメリカではすでに全世帯の七七パーセントに普及しており、すっかり大衆の手にわたっていた。
進んだ科学技術に触れ国民と同じように、戦前から小規模ながら自動車生産に情熱を注いでいた企業家や技術者も、乗用車を大量生産するアメリカのGMやフォードのような工場を手に入れたいとの夢を描いていた。 企業家をとりまく現実も貧しく、アメリカとはあまりにもかけ離れていた。
一九四五年九月二十五日、GHQは、ポツダム宣言の「経済を維持するだけの工業の維持を許容する」にしたがい、復興に必要な「トラックの製造を許可する。 但し、乗用車は不可」との覚書を発令した。
一九四六年になると、GHQは保有していたアメリカ製トラックやトレーラー・トラック、パスなど一万四千百五十七台を払い下げた。 以後、自動車の払い下げは、数年後まで数千台の規模で続くことになる。
こうした措置によって、トヨタ、日産、ヂ-ゼル自動車、東洋工業、日野重工業、高速機関工業など、戦前から自動車を生産していたメーカーが、細々と活動を開始した。 さらに、兵器を製造していた三菱重工業、旧中島飛行機などが、スクーターの生産を開始した。
とよたきいちろうそうした中にあって、トヨタ自動車の創立者・豊田喜一郎は、GHQから禁止されていた乗用車の生産になみなみならぬ執念を燃やしていた。 敗戦の年の十月には早くも乗用車の研究会をはじめ、翌月から設計をスタートさせている。
豊田喜一郎は、「小型車ならアメリカではつくっていないから競合しない。 やがてはアメリカに輸出したい」と考えていた。
喜一郎の従兄弟で、戦後トヨタの立役者となる豊田英二は、自著『決断』の中で次のように記している。 フォードに負けない乗用車、それも最新の技術を盛り込んだ大衆乗用車を作り、国民に供給することだった」豊田喜一郎の口癖は、「乗用車をやっていないような会社は自動車会社ではない」というものだった。
自動車の中でもっともむずかしい乗用車が、彼の目標だった。 一九二九年、豊田は豊田式自動織機の特許の実施権を英プラット・ブラザース社に十万ポンド(百万円)で譲渡する契約の調印のため、イギリスに渡った。
このときの帰り道に立ち寄ったアメリカの衝を走りまわる乗用車に目を奪われた。 それまでトヨタがつくっていたような、トラックと兼用のシャシ-を使った乗用車ではなかった。
豊田らによるGHQへのたび重なる嘆願が実り、一九四七年六月三日、やっと乗用車生産を許可された。 とはいっても、全メーカーの合計で年間三百台。
試作の許可が得られた程度の成果でしかなかった。 それでも、豊田らは自らの夢の実現に向けて、勇んで乗用車の試作をはじめた。
こうして乗用車の生産を再開した日本の自動車産業、足下の現実を見れば、生産設備、生産量だけでなく、資本の規模においても、アメリカとはオリンピック選手と赤子ほどの差があったなにしろ、一九四八年における日本車の全生産台数は約二万台、それに対し、アメリカ車は五百万台に達していた。 一九五〇年の時点においても、アメリカ第一位のGMが日産一万一千台であったのに対し、トヨタは四十台でしかなかった。
敗戦後の疲弊した日本の自動車工業にとって、フォード、GM、クライスラーなどの巨大資本が日本に上陸してくれば、ひとたまりもないのは明らかだった自動車の性能、品質においても日本ははるかに劣っていた。 戦勝国アメリカの自動車メーカーが、日本上陸を待ちかまえていると思われたし、マッカ-サ-の方針も、それを支持しているとみられていた。
かつて国産車メーカーを保護した軍部は、すでに消滅して存在しない。 絶対的な権限をもって日本をコントロールしているGHQがアメリカの自動車メーカーの上陸を許可すれば、大正末期のように、国産車メーカーはすべてつぶれてしまうにちがいない当時の自動車メーカーに対する一般的な評価をあらわすエピソードがある。
豊田英二が自動車用薄板を手配するため、満員の鈍行列車に揺られながら岩手県釜石市の製鉄所を訪れた。 なんとか会うことができた製鉄所の所長は、靴を履いた足を机の上に投げだしたままの横柄な態度で応対した相手の応答はすげないものだった。
戦後日本の自動車産業は、こんなところからスタートしたのである。 日本の自動車工業は、ほとんど存続の望みがないところから出発したといってよい。
「外車を大量に輸入すべきだ」というのが当時の一般的な考え方で、運輸省も、「欧米諸国の競争力は数段優れ、日本がいかなる努力を払っても、競争力格差は年とともにますます聞いていき、日本はらの国に追いつくことは不可能である」との考えだったに商工省(一九四九年より通産省)が反対し、輸入車に高率の関税を課して、圏内メーカーの保護を図った。 戦前に栄えた日本の航空機工業は、GHQの手によって活動を禁止された。
日本経済を蘇生させ、さらに発展させるためには、それにかわる総合機械工業としての自動車産業の育成が不可欠であるとの方針をとったのである。 戦前、戦後を通じて商工省・通産省で活躍してきたやり手官僚の一人、赤沢嘩一にインタビューし、終戦直後、日本の自動車工業を育成しようと意気込んだころの思いを聞かせてもらったことがある。
海軍時代、中曽根康弘(元首相)と同期の赤沢は、幅広い人脈と、高度成長期に通産省重工業局長として指導性を発揮したことで知られている。 まだ若手であった赤沢らは、から日本の産業をどう復興していくべきかをめぐって、連日、夜遅くまで熱っぽい議論を繰り返したという。
工作機械や自動車が中心にすえられ、それらを構成する歯車、ベアリングなどの機械部品工業を育成しようということになった。 この方針は一貫しており、後も変わることはなかった。
ただ、当時の若手通産官僚らの本音は、もう少し先を行っていた。 欧米先進国では、一九三0年代にすでに乗用車時代を迎えていた。
ことにアメリカには、いち早くマイカー時代が到来していた。 当時、後進工業国の日本は、遅れを私鉄やパスの交通網を整備することでカバーしようとしていた。
もっとも、戦後も政策が継続されて、世界でも例がないほどの公共交通システムを発展させたの。 狭い島国における交通システムのあり方を研究・検討したうえでの判断でもなかったのである。
困窮する日本の国民にとっては、マイカーは豊かさの象徴だった。 思いと同様に、企業家たちも、経済復興を果たすため、日本でもアメリカの自動車産業のような大量生産ラインをとにかく手に入れたいと考えた通産省にも、三日も早く一流工業国の仲間入りを果たしたい。
欧米先進国では巨大産業に発展している自動車工業を、日本でも育成したい」との宿願があった。 こうしたもろもろの要求が重なったところから、戦後日本の自動車工業はスタートを切ったのである。
当時、「日本は三流国」という言葉がはやった日本の貧しさものより、日本政府の政策や社会制度の貧困さを皮肉るのに使われていた。 通産省の若手官僚たちは、こうした批判を背中で受けとめながら、一流国の証明としての自動車工業を、日本でも早急に育成したいと強く願望したのである。
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一九四五年九月二十五日、GHQは、ポツダム宣言の「経済を維持するだけの工業の維持を許容する」にしたがい、復興に必要な「トラックの製造を許可する。 但し、乗用車は不可」との覚書を発令した。
一九四六年になると、GHQは保有していたアメリカ製トラックやトレーラー・トラック、パスなど一万四千百五十七台を払い下げた。 以後、自動車の払い下げは、数年後まで数千台の規模で続くことになる。
こうした措置によって、トヨタ、日産、ヂ-ゼル自動車、東洋工業、日野重工業、高速機関工業など、戦前から自動車を生産していたメーカーが、細々と活動を開始した。 さらに、兵器を製造していた三菱重工業、旧中島飛行機などが、スクーターの生産を開始した。
とよたきいちろうそうした中にあって、トヨタ自動車の創立者・豊田喜一郎は、GHQから禁止されていた乗用車の生産になみなみならぬ執念を燃やしていた。 敗戦の年の十月には早くも乗用車の研究会をはじめ、翌月から設計をスタートさせている。
豊田喜一郎は、「小型車ならアメリカではつくっていないから競合しない。 やがてはアメリカに輸出したい」と考えていた。
喜一郎の従兄弟で、戦後トヨタの立役者となる豊田英二は、自著『決断』の中で次のように記している。 フォードに負けない乗用車、それも最新の技術を盛り込んだ大衆乗用車を作り、国民に供給することだった」豊田喜一郎の口癖は、「乗用車をやっていないような会社は自動車会社ではない」というものだった。
自動車の中でもっともむずかしい乗用車が、彼の目標だった。 一九二九年、豊田は豊田式自動織機の特許の実施権を英プラット・ブラザース社に十万ポンド(百万円)で譲渡する契約の調印のため、イギリスに渡った。
このときの帰り道に立ち寄ったアメリカの衝を走りまわる乗用車に目を奪われた。 それまでトヨタがつくっていたような、トラックと兼用のシャシ-を使った乗用車ではなかった。
豊田らによるGHQへのたび重なる嘆願が実り、一九四七年六月三日、やっと乗用車生産を許可された。 とはいっても、全メーカーの合計で年間三百台。
試作の許可が得られた程度の成果でしかなかった。 それでも、豊田らは自らの夢の実現に向けて、勇んで乗用車の試作をはじめた。
こうして乗用車の生産を再開した日本の自動車産業、足下の現実を見れば、生産設備、生産量だけでなく、資本の規模においても、アメリカとはオリンピック選手と赤子ほどの差があったなにしろ、一九四八年における日本車の全生産台数は約二万台、それに対し、アメリカ車は五百万台に達していた。 一九五〇年の時点においても、アメリカ第一位のGMが日産一万一千台であったのに対し、トヨタは四十台でしかなかった。
敗戦後の疲弊した日本の自動車工業にとって、フォード、GM、クライスラーなどの巨大資本が日本に上陸してくれば、ひとたまりもないのは明らかだった自動車の性能、品質においても日本ははるかに劣っていた。 戦勝国アメリカの自動車メーカーが、日本上陸を待ちかまえていると思われたし、マッカ-サ-の方針も、それを支持しているとみられていた。
かつて国産車メーカーを保護した軍部は、すでに消滅して存在しない。 絶対的な権限をもって日本をコントロールしているGHQがアメリカの自動車メーカーの上陸を許可すれば、大正末期のように、国産車メーカーはすべてつぶれてしまうにちがいない当時の自動車メーカーに対する一般的な評価をあらわすエピソードがある。
豊田英二が自動車用薄板を手配するため、満員の鈍行列車に揺られながら岩手県釜石市の製鉄所を訪れた。 なんとか会うことができた製鉄所の所長は、靴を履いた足を机の上に投げだしたままの横柄な態度で応対した相手の応答はすげないものだった。
戦後日本の自動車産業は、こんなところからスタートしたのである。 日本の自動車工業は、ほとんど存続の望みがないところから出発したといってよい。
「外車を大量に輸入すべきだ」というのが当時の一般的な考え方で、運輸省も、「欧米諸国の競争力は数段優れ、日本がいかなる努力を払っても、競争力格差は年とともにますます聞いていき、日本はらの国に追いつくことは不可能である」との考えだったに商工省(一九四九年より通産省)が反対し、輸入車に高率の関税を課して、圏内メーカーの保護を図った。 戦前に栄えた日本の航空機工業は、GHQの手によって活動を禁止された。
日本経済を蘇生させ、さらに発展させるためには、それにかわる総合機械工業としての自動車産業の育成が不可欠であるとの方針をとったのである。 戦前、戦後を通じて商工省・通産省で活躍してきたやり手官僚の一人、赤沢嘩一にインタビューし、終戦直後、日本の自動車工業を育成しようと意気込んだころの思いを聞かせてもらったことがある。
海軍時代、中曽根康弘(元首相)と同期の赤沢は、幅広い人脈と、高度成長期に通産省重工業局長として指導性を発揮したことで知られている。 まだ若手であった赤沢らは、から日本の産業をどう復興していくべきかをめぐって、連日、夜遅くまで熱っぽい議論を繰り返したという。
工作機械や自動車が中心にすえられ、それらを構成する歯車、ベアリングなどの機械部品工業を育成しようということになった。 この方針は一貫しており、後も変わることはなかった。
ただ、当時の若手通産官僚らの本音は、もう少し先を行っていた。 欧米先進国では、一九三0年代にすでに乗用車時代を迎えていた。
ことにアメリカには、いち早くマイカー時代が到来していた。 当時、後進工業国の日本は、遅れを私鉄やパスの交通網を整備することでカバーしようとしていた。
もっとも、戦後も政策が継続されて、世界でも例がないほどの公共交通システムを発展させたの。 狭い島国における交通システムのあり方を研究・検討したうえでの判断でもなかったのである。
困窮する日本の国民にとっては、マイカーは豊かさの象徴だった。 思いと同様に、企業家たちも、経済復興を果たすため、日本でもアメリカの自動車産業のような大量生産ラインをとにかく手に入れたいと考えた通産省にも、三日も早く一流工業国の仲間入りを果たしたい。
欧米先進国では巨大産業に発展している自動車工業を、日本でも育成したい」との宿願があった。 こうしたもろもろの要求が重なったところから、戦後日本の自動車工業はスタートを切ったのである。
当時、「日本は三流国」という言葉がはやった日本の貧しさものより、日本政府の政策や社会制度の貧困さを皮肉るのに使われていた。 通産省の若手官僚たちは、こうした批判を背中で受けとめながら、一流国の証明としての自動車工業を、日本でも早急に育成したいと強く願望したのである。
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